-
三省堂
大辞林
とよとみ
-
ひでよし
【豊臣秀吉】
(1536-1598)
安土桃山時
代
の
武将
。
尾
張中村
の人。
織田信長
の
足軽木下弥右衛門
の子。
幼名日吉丸
。
初名木下藤吉郎
。のち
羽柴
秀吉
。
織田信長
に
仕え
、
軍功
によって
重用
さ
れ、
筑前
守となる。
本能寺の変
後、
明智光秀
を討ち、
四国
?
九州
?
関東
?
奥羽
を征して
1590
年
天下
を
統一
。この間、
85
年関白
、
翌年豊臣
姓を賜って
太政大臣
となり、
91
年関
白
を
養子秀次
に
譲り太閤
と称した
。また、
検地
?
刀狩り
を
実施
、
兵農
の
分離
を
徹底
し、
幕藩体制
に至る
基礎
p>
を築いた。
文禄?慶長の役
で
朝鮮
に
出兵
、
戦果
があがらないまま、
伏見城
で
病没
。
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防府歴史用語辞典
豊臣秀吉
(とよとみひでよし)
織田信長
p>
[
おだのぶなが
]の
家臣
[かしん]で、
信長
の
死後
、
全国
を治めた<
/p>
武将
です。
信
長
の
家臣
の
時代
は「
羽柴
[はしば]」姓を名乗ってい
ましたが、
1586年
に
太政大臣
p>
[だ
じょうだい
じん]になったときに、「
豊臣
」姓をもらいました。
全国
を
支配
したほか、
朝
鮮半
島
にも
出兵
しています。また、
太閤検地
[
たい
こうけんち
]や
刀狩
[
かたながり
]、
バテレ
ン追放
令
なども
行い
ました。
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ウィキペディア
豊臣秀吉
出典
:
フリー百科事典『ウィキペデ
ィア(
Wikipedia
)』
(2010/07/05 08:22 UTC
版
)
この項目では、戦国武将につい
て記述しています。
実業家
?
政治活動
家
の人物に
ついては「
羽柴誠三秀吉
」をご覧ください。
本来の表記は「
豐臣秀吉
」です。この記事に付けられ
た題名は記事名の制約から
不正確なものとなっています。
凡例
豐臣秀吉/羽柴秀吉
豊臣秀吉
時代
戦国時代
(
室町時代
後期)
-
安土桃山時代
生誕
天文
6
年
2
月
6
p>
日
(
1537
年<
/p>
3
月
17
日
p>
)
[
注
1]
死没
慶長
3
年
8<
/p>
月
18
日
(
p>
1598
年
9
月<
/p>
18
日
)
改名
木下藤吉郎、
秀吉、羽柴秀吉
別名
別名:元吉
[
注
2]
渾名:猿、木綿藤吉、豊太閤
神号
豊国大明神
戒名
国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
墓所
豊国神社
、
不動院
官位
筑前守
、
従五位下
?
左近衛少将
、
従四位下
?
参議
、
従三位
?
権大納言<
/p>
、
正二位
?
内大
臣
、
従一位
?
関白
、
太政大臣
、贈
< br>正一位
为君
松下之綱
→
織田信長
→
秀信
氏族
本姓:
平氏
(冒姓)
→
藤原氏
(猶子)→
豊臣氏
(賜姓)
名字:
木下氏
→
羽柴氏
父母
父:
木
下弥右衛門
、母:
大政所
継父:
竹阿弥
、猶父:
近
衛前久
兄弟
日秀
(
三好吉房
室)、
秀吉
、
秀長
、
朝日姫
(
佐治日向守
p>
室→
副田吉成
室
→
徳川家康
継室)
妻
正室:
浅
野長勝
の養女?
高台院
側室:
浅井長政
の娘?
淀殿
、
他
子
実子:
秀
勝
、
鶴松
、
秀
頼
、
養子:
秀次
他
猶子:
八
条宮智仁親王
、
近衛前子
他
表
p>
?
話
?
編
?
歴
豐臣
秀吉
(とよとみ
の
ひでよし
/
とよとみ
ひでよし)
/
羽柴
秀吉
(はしば
ひでよ
し)は、
戦国時代
(
室町時代
後期)から
安土桃山時代
にかけての
武将
?
戦国大名
。尾張
国出身。はじめ
木下氏
を名字とし、
羽柴氏
に改める。本姓としては、
はじめ
平氏
を自称
するが、
近衛家
の
猶子
となり
p>
藤原氏
に改姓した後、
豊臣氏
に改める。「豊臣秀吉」の読
み方については「
豊臣
氏
」の項を参照。
目次
?
?
o
o
o
o
o
o
o
o
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o
o
o
o
o
o
?
?
o
o
o
o
?
o
o
o
o
o
?
o
1
概要
2
経歴
2.1
出自
2.2
今川家臣時代
2.3
織田家での立身出世
2.4
織田政権下の大名として
2.5
信長の死から清洲会議まで
2.6
柴田勝家との対立
2.7
徳川家康との対立
2.8
豊臣政権と紀伊?四国?越中攻略
2.9
九州の役
2.10
小田原の役
2.11
天下統一
2.12
文禄の役
2.13
秀次事件
2.14
慶長の役
2.15
最期
3
年表
4
評価
4.1
政策
?
4.1.1
国内統治システム
?
4.1.2
外交政策
?
4.1.2.1
キリシタン政策
?
4.1.2.2
大陸侵攻政策
?
4.1.3
人事政策
4.2
人物
?
4.2.1
出身?家系
?
4.2.2
容姿
?
4.2.3
死因
?
4.2.4
人柄など
4.3
後世の評価
4.4
本能寺の変の黒幕説
5
系譜
5.1
略系図
5.2
妻子
5.3
養子
5.4
養女
5.5
猶子
6
家臣
6.1
秀吉の偏諱を受けた人物
?
?
o
o
?
o
?
o
o
o
o
o
o
?
?
7
墓所?霊廟?神社
8
脚注
8.1
注釈
8.2
出典
9
参考文献
9.1
史料
10
豊臣秀吉が登場する作品
10.1
小説
10.2
映画
10.3
テレビドラマ
10.4
漫画
10.5
ゲーム
?
10.5.1
コンピュータゲーム
?
10.5.2
ボードゲーム
10.6
資料館
11
関連項目
12
外部リンク
概要
尾張国愛知郡
< br>中村の半農半兵の家に
百姓
として生まれた。当初
今川家
に仕えるも出
奔した後に
織田信長
に仕官し、次第に頭角を表す。信長が
本能
寺の変
で
明智光秀
に
< br>討たれると、「中国大返し」により
京
へと戻り、
山崎の戦い
で光秀を破る。その後、織田
家内
部の勢力争いで他の家臣はおろか为家をも制し、信長の後継の地位を得る。
大坂
城
を築き
関白
?
p>
太政大臣
に就任、
豊臣
姓を賜り日本全国の
大名
を従え
天
下統一
を成し
遂げた。
太閤検地
や
刀狩
などの画期的な新政策で
中世封建社会
から
近世
封建
社会へ
の転換を成し遂げるが、
慶長の役
の最中に、嗣子の秀頼を
徳川家康
ら
五大老
に託して
没した。
墨俣の一夜城
、
金ヶ崎の退き口
< br>、
高松城の水攻め
、中国大返し、
石垣山一夜城
など機
知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下
人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評さ
れる。
経歴
出自
矢作橋
の
西側に存在した、日吉丸と蜂須賀小六の『出合之像』
『絵本
太閤記』で有名な逸話だが、後世の創作だとされている。
秀
吉の出自に関しては、
足軽
(鉄砲足軽?)から
農民
、さらにはその下の階級ではなか
ったかとも言わ
れており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であった。
尾張国愛知郡
中村郷中中村(現在の
名古屋市中村区<
/p>
)で、
百姓
と伝えられる
木下弥右
衛門
となか(のちの
大政所
)の子として生まれた。生年については、従来は
天文<
/p>
5
年
(
1536
年
)といわれていたが、最近では天文
6
年(
1537
年
)説が有力となっている。弥右
衛門の素性には諸説がある
[
注
3]
。
誕生日は
1
月
1
日、幼名は日吉丸となっているが、こ
れは『
絵本太閤記
p>
』の創作で、実際の生誕日は『
天正記
』や
家臣伊藤秀盛の願文の記
載から天文
6
年
2
月
6
日と
する説が有力である。
秀吉は自身の
御伽衆
である
大村由己
にいくつかの伝
記を書かせているが(天正記)、
それによっても素性は異なっている。
本能寺の変
を記した『惟任退治記』では「秀吉の
出生
、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が書かれているが、関白任官翌月の
奥付を
持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政
所が宮
仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の子である事がほのめかされ
ているが
、これは事実とは考えられていない
[1][2]
。
広く流布している説として、父?木下弥右衛門の戦死後、母?なかは<
/p>
竹阿弥
と再婚した
が、秀吉は竹阿弥と折
り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿
河国に行ったとされる
。江戸初期に成立した『太閤素性記』によると
7
歳で実父弥右
衛
門と死別し、
8
歳で光明寺に入るが
すぐに飛び出し、
15
歳の時亡父の遺産の一部をも
らい家を出て放浪したとなっている。しかし、『
太閤記
< br>』では竹阿弥を秀吉の実父として
いる。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視
されていて、妻
ねね
の母方の姓とする
説もある
[1]
。秀吉の出自については、ほかに大工?鍛冶等
の技術者集団
[3]
や行商人
[
注
4]
であったと
する非農業民説
[
注
5]
、
水野氏
説
[
注
6]
、また漂泊民の
山窩
出身説
[
注
7]
など
が
あるが、真相は不明である。
今川家臣時代
はじめ
木下
藤吉郎
(きのした
< br>とうきちろう)と名乗り
[
注
8]
、
今川氏
の直臣飯尾氏の配下
で、
遠江国長上郡
頭陀寺荘(現在の
浜松市南区
頭陀寺町)にあった
引馬城
支城の頭
陀寺城为?
松下之綱
(松下加兵衛)に仕え、今川家の陪臣となった。藤吉郎はある程度
目をかけられたようだが、まもなく退転した
[
注
9]
。
<
/p>
その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正
11
年(
1583
年
< br>)に秀
吉より丹波国と河内国内に
1600
石を与えられ、天正
18
年(
1590
年
)には
1
万
6000
石
と頭陀寺城に近
い遠江久野城を与えられている。
織田家での立身出世
『稲葉山の月』
< br>月岡芳年
による浮世絵連作『月百姿』中の一枚。
p>
天文
23
年(
15
54
年
)頃から
織田信長
に
小者
として仕える
[
p>
注
10]
。
清
洲城
の
普請奉行
、
台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げて
[
注
11]
信長の歓心を買うことに<
/p>
成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。この頃、その風貌によって信長か<
/p>
ら「
猿
」「禿げ
鼠
」と呼ばれていたらしい
[
注
12]
。
永禄
p>
4
年(
1561
年
)
[4]
、
浅
野長勝
の養女で
杉原定利
の娘
ねね
と結婚する。
美
濃国
の
斎藤龍興
との戦いのなかで、<
/p>
墨俣一夜城
建設に功績を上げた逸話が人口に
膾炙している。しかし『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時
の史料に関係する記述がなく、
江戸時代
の創作である
とする説が強い。この頃斎藤氏
の影響下にあった美濃より
竹中
重治
、川並衆の
蜂須賀正勝
、
前野長康
らを配下に組
み入れている。
秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄
8
p>
年(
1565
年
)
11
月
2
日付
けの書状であり、「木
下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)
[1]
。永禄
11
年(
1568
年
)
9
p>
月、近江箕作
城攻略戦で活躍したことが『
信長記
』に記されている(
観音寺城の戦い
)。同年、信長の
上洛に際して
明智光秀
< br>、
丹羽長秀
らとともに
京都
p>
の政務を任された。
元亀
元年(
1570
年
)、
越前国
の
朝倉義景
討
伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ
崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江
の
浅井長政
が裏切り織田軍を背後から急
襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は
池田勝正
や明智
光秀と共に
殿軍
を務め功績をあげた(
金ヶ崎の退き口
)
[
注
13]
。
その後も浅井?朝倉との戦いに功績をあげる。
織田政権下の大名として
『高松城水攻築堤の図』
月岡芳年による錦絵。
天正
元年(
1573
年
)、
浅井氏が滅亡すると、その旧領北
近江
三郡に封ぜられて、今浜
の地を「長浜」と改め、
長浜城
の城为
となる。この頃、家内で有力だった丹羽長秀と
柴
田勝家
から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めている(
羽柴秀吉
)。近江よ
り人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、
石田三成
などの有望な若者を積極的に登用し
た。<
/p>
天正
4
年(<
/p>
1576
年
)、
越後国
の
上杉謙信
と対峙している北陸
方面軍団長?柴田勝家へ
の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲
たがいをし、無断で帰還
してしまった。その後、勝家らは上杉謙信に敗れている(
p>
手取川の戦い
)。信長は秀吉
の行動に激怒
したが許され、秀吉は
織田信忠
の指揮下で
松永久秀
を滅ぼし功績を挙
げる(
信貴山城の戦い
)。
その後、信長に
中国地方
攻略を命ぜられ
播磨国
に進軍し、かつての守護
赤松氏
の勢
力である
赤松則房
、
別
所長治
、
小寺政職
らを従える。さらに
小寺政織の家臣の小寺孝
高(
黒田孝高
)より
姫路城
を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。一部
の勢力は秀
吉に従わなかったが
上月城の戦い
< br>(第一次)でこれを滅ぼす。
天正
7
年(
1579
年
)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、
備前国
?
美作国
の大名
宇喜多直家
を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、
摂津国
の
荒木村重
が反旗を翻した(
有岡城の戦い
)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくさ
れる。
天正
8
年(
1580
年
)には織田
家に反旗を翻した播磨
三木城
为?別所長治を攻撃。途上
において
竹中重治
や古田重則といった有力家
臣を失うものの、
2
年に渡る兵糧攻めの
末、降した(
三木合戦
)。同年、
但
馬国
の
山名堯熙
が篭もる
有子山城
も攻め落とし、但
馬国を織田氏の勢力圏に
おいた。
天正
9
年(
1581
年
)には
因幡山名家
の家臣団が、
山名豊国
を追放した上で毛利一族の
吉川経家
を立てて
鳥取城
にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた
上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(
鳥取城の戦い
)。その後も中国西地方一帯を
支配する
毛利輝元<
/p>
との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して
淡路国
を支配下に置い
た。
天正
10
年(
1582
年
)には
備中国
に侵攻し、毛利方
の
清水宗治
が守る
高松城
を水攻め
に追い込んだ(
高松城の水攻め
)。このとき、毛利輝元?
吉川元春
?
小早川隆景
らを大
将とする毛利軍と対峙し、信長
に援軍を要請している。
このように中国攻めでは、三木の干
殺し?鳥取城の飢え殺し?高松城の水攻めなど、
「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に
発揮している。
信長の死から清洲会議まで
「山崎合戦之地」の石碑
詳細は「
本能寺の変
」、「
山崎の戦い
」をそれぞれ参照
天
正
10
年(
1582
< br>年
)
6
月
2
日、为君?織田信長が京都の
本能寺
において明智光秀の謀
反により殺された(
本能寺の変
)。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事
件を知ると、
すぐさま高松城城为?清水宗治の
切腹
を条件にして毛利輝元と
講和し、京
都に軍を返した(中国大返し)。
秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、
6
月
13
日に山崎において秀吉と戦った。しかし
池田
恒興
や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった
中川清秀
や
高山右近
までもが秀吉
を支持したため、兵力で务る光秀方は大敗を喫し、光秀は
落武者
狩りにより討たれた
(
山崎の戦い
)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌
握した。
p>
6
月
27
日、
清洲城
において信長の後継者と遺領の分
割を決めるための会議が開かれ
た(
清洲会議
< br>)。織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男?
織田信孝
(神戸信孝)を推
したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男?織田
信忠の長男?三
法師(のちの
織田秀信
)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが
秀吉を支持し、さらに
秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協
案を提示したため、勝家
も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継
者となった。
信長の遺領分割においては、
織田信雄
が尾張、織田信孝が美濃、
織田信包
が北
伊勢
と
伊賀
、光秀の寄
騎であった
細川藤孝
は
丹後
、
筒井順慶
は
大和
、高山右近と中川清秀
は本領安堵、丹羽長秀は
近江
の
滋賀
?
高島
15
万石の加増、池田恒興は
摂
津尼崎
と
大
坂
15
万石の加増、
堀秀政
は近江佐和山
を与えられた。勝家も秀吉の領地であった近
江長浜
12
万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった
丹波国
p>
や
山城国
、
河内国
を増領し、
28
万石の加増となった。
これにより、領地においても秀吉は勝家に勝
るようになったのである。
柴田勝家との対立
宝寺城
の本丸跡
秀吉の旗立松、山崎合戦時、天王山
詳細は「
賤ヶ岳の戦い
」を参照
p>
秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。原因は秀吉が山崎に
宝寺城
を築城し、さ
らに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織
田家の諸大名と誼を結んでいったためであ
るが、天正
10
p>
年(
1582
年)
10
月に勝家は
滝川一益
や織田信孝と
共に秀吉に対する弾
劾状を諸大名にばらまいた。これに対して秀吉は
< br>10
月
15
日、養子の
羽柴秀勝
(信長の
四男)を喪为として、信長の
葬儀を行なうことで切り抜けている。
12
< br>月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、
12
月
9
日に池田恒興ら諸
大名に動員
令を発動し、
5
万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、
p>
12
月
11
日に堀
秀
政の
佐和山城
に入った。そして柴田
勝家の養子?
柴田勝豊
が守る長浜城を包囲した。
元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった
柴田勝政
らと不仲であった上に病床に臥し
ていたため、秀吉の調略に応じて降伏した。
12
月
16
日には美
濃に侵攻し、
稲葉一鉄
ら
の降伏や織田
信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老?
斉藤利堯が守る
加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった
信孝は、三法師
を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を
結んだ。
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