-
岛
津
氏
p>
与
关
原
合
战
—
—
岛
津
义
弘
的
< br>参
战
情
况
与
德
川
的
岛
津
处
分
文
p>
库
精品好文档,推荐学习交流
『译稿』岛津氏与关原合战——岛津义弘的参战情况与德川的岛津处分
管理提醒:
本帖被
後藤茶檎
执行提前操作
(2010-08-14)
作者:鹿儿岛大学
四本健光
原文发表于《鹿児島大学教育学部研究紀要-人文
?
社会科学編
》第十八期。
序言
在关
原合战中作为反德川战力发挥了有力作用的岛津氏战后与毛利等氏相比较,受到了德川
氏
的宽大处置。领国未减,家臣也未处罚一人。在此之间究竟有哪些情况呢?关于这一疑
问
,笔者将就着之前的研究根据史料加以检讨。
Ⅰ
史料
1
德川家文书研究
中村孝也著
本书系德川家康文书之集大成者,其中岛津宛文书自其参考史料《后编萨藩旧记杂录》以下
二十三则史料中之关系文书编纂而成。其数量达一百零五通之多,可谓详尽。(德文)
2
史料综览
史料编纂所编
据典之数更凌驾于前者。前者引用的黑田文书之外六则史料也有收录,所据史料综述达百
余,以年表记事共记录三十五项。与1中文书也不抵触,两者并用颇为便利。(史综)
3
岛津世禄记
(世禄)
4
岛津国史
(国史)
5
后编萨藩旧记杂录
(萨杂)
6
德川实纪(东照宫御实纪,东照宫御实纪附录)
(德实)
7
藩翰谱
(藩谱)
8
宽政重修诸家谱
(宽谱)
9
岛津史料集(惟新公关原御合战记,庄内阵记)
北川铁三校注(合战)
(庄
阵)
10
家康史料集(庆长记)
小野信二校注
(庆长)
仅供学习与交流,如有侵权请联系网站删除
谢谢
12
精品好文档,推荐学习交流
11
岛津义弘公记
12
鹿儿岛外史
(鹿外)
13
历代御制度
(历御)
14
义弘公关原始终记
(始终)
15
西藩野史
(西史)
16
鹿儿岛县史
(县史)
17
江户时代史
栗田元次著
(江史)
18
大日本古文书(岛津文书之三)
(岛文)
注:(
1
)末尾括号系引用时之省略。
(
p>
2
)引用史料(德文)有收录者据(德文),唯其不收录者据(萨杂
、国史、岛文)
等。
Ⅱ
庄内事件(幸侃事件)
所谓庄内事件,系庆长四年伊集院忠栋(幸侃)遭岛津忠恒暗杀以致其子忠真据守庄内之地
向岛津氏发起叛乱,于庆长七年为忠恒所杀之事件。
因本稿目的不在于此,关于事件内容之说明便省略了,然而岛
津氏步向关原合战的序曲却正
是以这一事件为舞台奏响的。
一般认为,岛津氏在贵久时代从守护大名向战国大名推移,然
而丰臣秀吉却给战国大名岛津
带来了危机。即秀吉的岛津征伐,那是贵久之子义久之时的
事情。
天正十五年义久降伏于秀吉
军门之下,萨摩、大隅、日向之领国获得安堵,然而依文禄检地
义弘之所领却不过十万石
(
1
、
2
)。
战国大名既以领国的一元统治为其一大特点,这种情况
自然会招致岛津支配权的不稳,此
事大坂之阵丰臣方催促出兵之时于义弘言辞之中也曾出现
(
3<
/p>
)。虽以文禄庆长役之勋功返还了出水与石田、细川分五万石(
4
、
5
),但伊集院忠栋
的八万石却还留着(
6
)。如新井白石所言,虽说岛津
所以能领国安堵全靠忠栋的功绩
(
7
)
,但身为家老的忠栋竟然获得秀吉直接发放的朱印状,而且虽说可能有些夸张,但忠
栋目
无主上的行为大概也确实成了忠恒不得不啥的原因了吧(
8
)。
幸侃诛杀自然引起了其子忠真的叛乱,岛津为了平叛烦恼不已。
秀吉死于庆长三年八月,幸侃事件的庆长四年三月阶段,正是
三成与家康的对立激增,开始
仅供学习与交流,如有侵权请联系网站删除
谢谢
12
精品好文档,推荐学习交流
策划讨伐
家康的时期。从而,两者可以说都开始谋划将岛津拉入自己一方。三成告知岛津幸
侃怀有
二心而迎合其意,结果反倒使家康得以施恩于岛津。忠真反叛即庄内之变一起,家康
就派
遣了援兵助其平叛,岛津这才勉强得以将忠真安置于颖娃一万石。
以上简述了幸侃事件之经纬。鹿儿岛外史所言“依秀吉之命云
云”虽不可信,但不可否认凭
御朱印得领知的伊集院幸侃的存在确实有着某些可茲利用的
可能。不论如何,岛津大体算是
稳定了其支配。同时德川通过一面施恩一面拨给伊集院忠
真一万石堪忍分使得岛津氏至少不
能站到反德川势力一边去,其安置可谓成功。
注释:
(
1
)文祿
四年六月廿九日朱記書賜松齢公(義弘)五十五万九千五百三十三石又於其中十
万石係貫
明公(義久)養地八万三千石八斗四升係伊集院忠棟邑一万石係島津以久邑二十六
万六千
五百三十三石係給人領三千石係寺社領而公所食実十万石(国史)
(
2
)合(
薩摩国,大隅国,日向国諸県郡)五拾七万八千七百三十三石
内今度以検地之上壱万石御蔵入六千弐百石
石田治部少輔三千石幽斉氏分相除之
五十五万九千五百三拾三石(譜翌)令扶助訧全可有領地者也
文禄四稔六月廿九日
太閤御朱印
羽柴薩摩守どのへ
(世祿)
(
3
)薩隅日三州之地亦削日州之大半僅賜諸県一郡且削薩摩之
地出水高城二郡為公領削隅
州之地始羅郡之内加治木為公領又削同国肝付郡以朱賜我家臣
伊集院右衛門太夫式以六千弐
百石賜石田治部少輔以三千石賜細川幽斉是以進退齷齪遺恨
豈不啻睚眦之際哉雖然以時不利
暫属秀吉公旗下而巳(略)
(世祿)
(
4
)於今度朝鮮国泗川表大明朝鮮人催猛勢相働候之処父子被
及一戦則切崩敵三万八千七
百余被切捕之段忠功無比類候依之為御褒美薩州之内御蔵入給
人分有次第一円ニ被宛行訖
(略)
慶長四年正月九日
輝元
景勝
秀家
利家
家康
(徳文)
羽柴薩摩少将殿
< br>(
5
)御知行方目録
一、四百六拾五斛壱斗五升五合(薩摩国出水領内上こしき村)
(略)
都合壱万九千七百弐拾八石六斗九升五合
一、壱万石
出水領内羽柴対馬守当知行分
一、壱万石
大隅薩摩内御蔵入
一、六千三百石
薩摩国石田治部少輔之分
一、三千石
薩摩国幽斉之分
惣五万石
右於今度朝鮮国云々(同
4
)(世祿)
仅供学习与交流,如有侵权请联系网站删除
谢谢
12
精品好文档,推荐学习交流
(
6
)伊集院右衛門入道知行之分
一、八千八百参拾九斛四升七合
日向諸県之領之内宮古城村
一、四千百九斛壱斗七升六合
同
三ケ相
一、三千百弐斛六合
同
梶山相
一、弐千弐百出九斛七斗六升九合
同
山田相
一、壱万三百廿五斛八斗五升
同
五ケ村
一、六千八百出斛七斗壱升九合
同
安
長
一、千五百六拾六斛弐斗四升六合
同
のの美屋
一、九千七百廿五石弐斗八升九合
同
高
城
一、壱万弐千参百七拾五石弐斗壱升
大隅之內末吉
一、弐千四百三斛八斗壱升三合
同
恒
財
一、四千三百卅七斛壱斗壱升九合
同
財
部
一、千四百七拾三斛四斗七升九合
同
めぐり
一、千弐百九角斗弐斗七升七合
同
市
成
一、千七百五拾六斛五斗壱升八合
同
もひき
一、八拾石
同
平房内
一、弐千三百甘石七斗九升七合
同
内之浦
一、七千弐百六拾四斛壱斗壱升
同
大
崎
合八万三斛八斗四升
(文祿四年六月廿九日
大閤朱印)
(
7
)ここに島津が家人伊集院右衛門大夫入道幸侃といひし
は,天正十九年主の島津が既
に亡ぶべかりしに,この幸侃関白の御陣に参て,欺き申せ
しに因て義久兄弟が罪ゆるさ
れ,本領を安堵す。されば関白にも彼が忠を感じ給ひ,大
隅の内一郡の地を分ち賜ふ。か
かる奉公の者なれど,如何なる故にかありけん,慶長四
年三月九日陸奥守忠恒伏見の館に
して,これを誅す。幸侃が郎等既に軍せんとひしめく
。徳川殿忠恒が許に御使あって御加
勢賜はるべきよしを仰せ下さる。恣に討って都のさ
わざ仕出しければ忠恒其咎を悼りて高
雄の麓に蟄居す。徳川殿豊臣家の奉行等に仰せら
るる旨あって忠恒その咎を免かる。徳川
殿頓て数十騎の兵して忠恒を伏見の家に迎へ入
れ給ひ,忠恒本国に還る事を得たり。幸侃
が子源二郎父が討れしを聞て,日向国庄内の
城に立篭り,要害あまた構て島津と戦ふ。
(藩譜)
(
8
)殿下の覚他に異にして御帰落の御供し島津家々老の高席
にして,倍々威厳強大にし
て栄頃地をかへたり。毎に御前に眤近し国主大名に等く,国
家の政事大小となく幸侃が指
揮に出すと云ことなし。門前には汗馬の市をなし,堂上に
は賓客群集す。殊に五奉行石田
治部少輔三成に睦をとりて,(略)
斯て忠棟入道幸侃は伏見に屋敷を横へ,造営結構に出
来,君主の居宅も及び難く,さなが
ら国主大君の会釈にて,驕奪日頃に十倍せり。今迄
は太閤の御前を憚りて,幸侃が逆意を
察し乍ら兎角もたし玉ひけるが,今は太閤も薨去
ある上は,何をか憚り何をか期す可き
(略)
其頃奉行中石田治部少輔三成元来太閤取立の大名なる老中職
たりしが,内大臣家康公天下
の政務を預り奪んことを察しければ,兼て快からず何卒し
て内府を亡し若君を御世に為知
仅供学习与交流,如有侵权请联系网站删除
谢谢
12
精品好文档,推荐学习交流
たてまつ
らんと内謀を巡らす最中なれば,偏に御家を頼み奉らんと恩ければ,忠棟入道が
陰謀の
こと,忠恒公へ一々密に御注進申上られける。爰に於て惟新公忠恒公急度仰合さ
れ,今
は事延々にしては謀の漏ることも計り難し。幸三成註進に就き速に誅罪有る可し。
(略
)(庄陣)
(
9
)内府様江参候事又私宅へ入御之事少モ偽なく条々有やうニ令口能候,曽別なる
儀ヲ
不申入不承候(略)
慶長四年正月三日
竜伯
又八郎殿
兵庫頭殿
(島文)
(
10
)敬白起請文前書之事
一、被対秀頼様御疎略有間敷之由尤候事
<
/p>
一、対御父子御両三人疎略毛頭有之間敷候付抜手表裡有之間敷事
一、佞人之族在之而御間相さまたくる輩雖有之直談申互相晴可申事
梵天云々(略)
(慶長四年卯月二日
家康より義弘·忠恒宛)
(
11
)御下以後不申入候間以使者申候
仍伊集院源次郎于今城を相抱申由承候
<
/p>
為御譜代
家人之身加様之儀為自今以後候間早々御成敗尤候
雖然無聊爾人数等無異儀様被仰付肝要
候委
細者彼使(山口直友)者口上ニ申候
(慶長四年七月九日
家康より忠恒宛)
(
12
)御下以来不中人候問以書状申候
偽伊集院源二郎居城相抱在之由承候問嶋津父子為
見廻使者差下候
竜伯父子被仰次第自身御立候御馳走尤候(略)
(慶長四年七月九日
家康より伊東豊後·相良左兵衛宛)
(徳文)
(
13
)先書申入候伊集院源次郎于今不致下城之由不届儀共候
,依之寺沢志摩守方指下申
候。為自今以後候間寺沢志摩被相談自身有御出陣被誅果尤候
(略)
(慶長四年八月廿日
家康より島津忠豊宛)
同文同日付者,財部之秋月,飫肥之伊東,人吉之相良,延岡之高橋宛
(徳文)
(
14
)起請文前書之事
伊集院源次郎到寺沢志摩守殿当家江者堪忍仕間敷候由以墨付申候儀雖遺恨深重候内府様御
嗳候条差捨候然者源二郎罷出候て奉公上者以来之儀無異儀可召仕候(略)
(慶長五年二月廿九
忠恒·竜伯より山口勘兵衛宛)
(島文)
(
15
)其表之様子被仰越具承候伊集院儀可被討果被相極処重
而山口就指下少将殿被及御異
見赦免之上勘忍分壱万石被宛行之由尤候(略)
(慶長五年三月廿日
家康より竜伯宛)
(徳文)
(
16
)慶長五年三月十日
是ヨリ先大隅帖佐ノ島津惟新ノ兄同竜伯及ビ子同忠恒徳川家康ノ調議ヲ容レ伊集院忠真ノ
罪ヲ赦シ一万石ノ地ヲ給ス又是日忠貢降り諸城ヲ致ス。
(史綜)
仅供学习与交流,如有侵权请联系网站删除
谢谢
12
精品好文档,推荐学习交流
(
17
)伊集院忠棟受大封称直覲格御目見衆秀吉寵遇無有出其右(略)
亦受秀吉密命竊鴆今
世子而謀己子忠真以義弘聟立之奪宗室,石田三成首与之。然至秀吉
薨後謀滅家康石田迺変
心白陰事於忠恒而厚其親
於是忠棟不軌悉発覚,三月世子忠恒召忠棟於下邸茶室親起斫
之。
(鹿外)
(
18
)寺沢,高橋,秋月諸将の救兵是又内府
公の姦滑なり。
(庄陣)
Ⅲ
义弘的参战情况
< br>庄内事件于庆长五年三月告终,五月义弘于大坂城会见家康以答谢其调停之劳,此时的家康
行将出征陆奥会津。
承蒙
家康恩顾的岛津氏为何参加了反德川一派呢?关于这一点鹿儿岛县史写到“义弘受家康
之
托留守伏见城,却为伏见城留守役乌居所拒,无可奈何之下加入了石田方”。义弘公记、
乡土史大系等也多持此论。其根据大略系世禄记、岛津国史、关原合战记等(
19
,
20
,
21
,
22
)。伏见城留守一事,从庆长五年卯月
廿七日惟新书信与同年五月二十日家康书信及庆长
记、宽政重修诸家谱等中也可窥见一二
(
23
,
24
,
25
,
26
,
27
)。然而德川实纪、藩翰谱并
未
提及此事,是否家康未借寒暄之名暗喻牵制之意向惟新嘱托伏见城留守之事呢?出发之时
未置一词、伏见城留守之乌居等不准入城一步等事无不令人做如此推想。
七月十五日,义弘决心加入石田方(
28
),战后义弘致信黑田长政,澄明其是受到石田方以
对秀赖
之誓纸为借口痛斥之下无可奈何才加入石田方的,宽政重修诸家谱也强调了这一点
(
p>
29
,
30
)。<
/p>
然而,义弘真正的想法,只怕还是料
到以手下两百多兵力即便加入家康一方出任伏见城的留
守番也无法与石田方对抗,这才参
加石田一方的吧(
31
,
32
)?伏见城一事,不仅庆长记、
庆长六年舟越景直书状加以否认,也成为
了将下述处分问题引向有利一面的原因之一。
(
26
,
33
)
注释:
(
19
)島津義弘は家康に請ばれて伏
見城に留守を依頼されたが,世情騒然たると共に急速
国元へ向けて手兵の不足を告げて
後続を依頼した。然るに鳥居元忠等本丸に在って義弘が
薩摩より来った新納旅庵を遺し
たるも納れしめなかった。
(県史)
(
20
)如
是故欲守伏見之城就其留後鳥居彦右衛門尉内蔵藤弥次右衛門尉再三請之不得其許
諾不得
己而遂与石田合焉。
(世緑)
(
21
)(
慶長五年七月十七日)
先是神祖従容謂公曰景勝不庭会当東征
請以伏見城為託至是公遣使詣鳥居元忠求共守城元忠
弗許会新納旅庵自薩摩復遣旅庵閉門
不納乃欲固畳自守而兵未集麾下止有二百余人恐為大兵
所禽而長盛正家等書適至責以送住
事居之義於是公不得己而応之。
(国史)
仅供学习与交流,如有侵权请联系网站删除
谢谢
12
-
-
-
-
-
-
-
-
-
上一篇:哔哩哔哩分作业
下一篇:高考英语精练组合 (18)