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「漫画」の語源については「
日本の漫画
#
p>
語源
」を参照
滑
稽な絵という意味での「漫画」は、
平安時代
の
絵巻物
?
『
鳥獣
人物戯画
(鳥獣戯画)』が日本最古であると言われている。
[1][2]
他にも絵巻物には漫画的な表現がみら
れる。『
福富草子
』という
主人公が屁
芸で成功する話では、直接台詞が人物の横に書かれ
[3]
、<
/p>
フ?ダシに近いものがある。また『
信貴山縁起絵巻
』では一枚絵
で場面転換をしており、
絵巻物
の文化自体が「現代の漫画」に似
た要素を含んでいる。
その後
18
世紀
初頭には商品としての
戯画
が流通するようにな
り、
19
世紀には戯画的な
浮世絵
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も生まれた。背景には
印刷
技術の発達
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と町人文化の興隆がある。
葛飾北斎『北斎漫画』
ヨーロッパ
にも影響を与えた
葛飾北斎
の『
北斎漫画
』は特に有名
である。この中には鼻息を表す線が描かれるなど、現代で言う
「漫符」の古い形が既
に見られる。だがこれ自体は葛飾派の弟子
達の絵手本として描かれた物の為、江戸の漫
画というのには誤解
がある。
また、
歌川広重
、幕末の
歌川国芳
ら多くの
浮世絵師
達が戯画を描
< br>いた。それらの戯画の中に風刺的なものがあるが、その絵を役人
に誉められて喜
んだという話もあり、本格的な風刺ではなくあく
まで娯楽の部分が強い。
絵に文が添えられた滑稽な読み物としては、
江戸
時代
の
草双紙
の
内「黄表紙」と呼ばれたものがある。例えば『金々先生栄花夢』
での夢を見るシーン
で使われている、いわゆる「フ?ダシ」など
は現代の漫画にも通じる技法である。
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また、
十返舎一九
は当初一人で絵と話を作っていたが、次第に原
作者に専念するなど、現代漫画におけ
る原作者と作画家において
の関係に近いものがあった。
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これらは、鳥羽僧正の名にちなんで「
鳥羽絵
」(主に手足の細長
いデフ゜ルメされた人物を描く)、または「
大津絵
」「狂画」な
どと呼ばれており、それらの呼称は近
代に入っても引き続き使わ
れた。
幕末から第二次世界大戦まで
[
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]
幕末から明治憲法発布まで
[
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]
<
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幕末
の
1862
年
には、日本初の外字
雑誌
にして
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漫画雑誌
の『ジャパ
ン
?
パンチ』が
?ァリス
人
チャールズ
?
ワーィマン
によって
横浜
居留地
で発行された。
彫師
?
摺師は日本人で、和紙に印刷された
和綴じの本であった。?ァリスの
風刺漫画
雑誌『
パンチ
』が語源
であるという別の説もあるが、
どちらにしろこれにより
「ポンチ
絵」
という風刺または
寓話
的漫画を意味する語が生まれた。
[4]
現代
では漫画全般をさす意となってい
る。
1874
年
には
河鍋暁斎
と
仮名垣魯文
がこれを参考に『
絵新聞日本地
』
という雑誌を刊行。後に続き『
寄笑新聞
』が、さ
らに
1877
年には
明治時代
を代表する漫画誌『
團團珍聞
(まるまるちんぶ
ん)』が
野村文夫
によって創刊された。日本で最初の連載漫画
は、『團團
珍聞』に連載された
田口米作
の『江の島鎌倉長短旅行』(
1896
年)
< br>である。「長」と「短」と名付けられた主人公二人組による観光
旅行を描いたこ
の作品は、特定の?ャラアターによる一貫したス
トーリーを描いた最初の漫画であった
。
上記の
河鍋暁斎
< br>や
田口米作
、そして
小林清親<
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などの明治初期の主
要な漫画家は、
浮世
絵師
から転身した作家達であった。
明治憲法発布から第二次世界大戦まで
[
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]
北沢楽天『田吾作と杢兵衛の東京見物』
北澤楽天
は
福澤諭吉
に見出され、
その紹介により週刊英字新聞で
活躍していたゝーストラリ?出身の漫画家フランア
p>
?
A
?
ナン?ベ<
/p>
ルに師事した。
1899
年に福澤の招き
により
時事新報
に入社し、
『田吾作と
杢兵衛』や『灰殻木戸郎』などの風刺漫画の傑作を
次々と生み出した。更に
1905
年には『
東京パッア
』を創刊するな
ど、日本における風刺漫画の発展に大きく貢献した。又、
1921
年
には日本最初の新聞日曜版漫画であ
る『時事新報日曜付録
?
時事
漫画』を
創刊した。これらの新聞や雑誌で連載された楽天の風刺
漫画は、
ダーアス
や
??トウールト
、
ゝッパー
などの同時代の?
メリゞ合衆国の<
/p>
ウミッア
?
ストリップ
< br>作家達から、強い影響を受
けていた。楽天が
1928<
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年から『時事漫画』で連載した『とんだは
ね子』は、日本で最初
の少女を主人公とした連載漫画であり、少
女漫画の先駆的作品である。
岡本一平
は、
1915
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年に日本初の漫画家団体である
東京漫画会
(後
の日本漫画会)を設立した。翌年に創刊された同会の同人誌『ト
< br>バ゛』により、ド?ツの漫画誌『シンプリチシムス』などに触発
された簡素な描
線やデフ゜ルメされた画風が日本漫画に取り入れ
られた。また、岡本は
東京朝日新聞
において『人の一生』(
1921
年)などの漫画漫文を連載し、後の日本におけるストーリー漫画
の原
型を作り上げた。それまでは専ら風刺の手段と見なされてい
た漫画が、大衆娯楽として
認識されていく過程において、岡本の
活動は大きな役割を果たした。
< br>
1923
年に執筆された
織田
小星
作
?
樺島勝一
画の『
正チャンの冒険
』
や、
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麻生豊
の『
ノン?ナト?エン
』以降から、現代の漫画に通じ
るウマ割りやフ?ダシといった表現手法が定
着し始める。
1932
年には、
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近藤日出造
、
横山隆一
、
杉浦幸雄
ら
20
代の若手漫
画家により、
新漫画派集団
が結成された。新漫画派集団の作家達
は毛筆ではなくペンによる描画をその特
徴とし、欧米の
ナンセン
ス漫画
に触発
された日本独自のナンセンス漫画を主要な作風とし
ていた。新漫画派集団は楽天や一平
、その弟子達を凌駕する人気
を獲得し、新漫画派集団の作家達は、後に第二次世界大戦
後の漫
画界の中核を成す存在となっていった。
1930
年代には、講談社の『少年倶楽部』他の子供雑誌で連載され
た『
のらくろ
』『
タ
ンアタンアロー
』『
冒険ダン吉
』など
の子供
向けの人気漫画が単行本化され、ベストセラーとなった。
芳賀ま
さを
や
阪本牙城
らもいた。しかし、一般の子供達には、高価すぎ
て近づきがたいものだった
。彼らの関心の中心は、関東大震災以
後に普及した紙芝居であり、手書きものだけでな
く、印刷ものま
で、全国配給ルートが確立されていた。
第二次世界大戦後
[
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]
米軍占領時代
[
編集
]
<
/p>
第二次世界大戦戦後に飛躍的に発達した漫画は、第二次世界大戦
までの漫画とは系譜的に断絶している。実際、戦前の漫画家で、
戦後の漫画家になった
例は、非常に少ない。戦後、特に
米軍占領
時代
の漫画は、むしろ戦前の
紙芝居
に因る所が大きい。即
ち、紙
芝居は、戦災でほとんどのウンテンツ資産を失いながらも、戦後
に急速に再生する。ここにおいて、また、『黄金バット』などの
紙芝居を元に
した
絵物語
が、戦前からの廉価な
赤本
(表紙に赤色
が多い、本来は活字小説が主)のシリーズにも入
れられるように
なり、書店ではなく、
駄菓子屋
や紙芝居屋によって販売される。
また、小学館系の集英社で児童向けの月刊誌
が発刊され、
山川惣
治
の『少年王者』
のような絵物語が連載されるようになる。
活字ものを含め、
赤本や月刊誌は、それでもまだ高価であったた
め、貸本屋が普及し、漫画もこれと共に
成長する。ここにおいて、
手塚治虫
は、赤本において、まとま
ったストーリーを展開する方
法を確立し、また、若手が手作りの一点ものを貸本屋に売
って、
漫画が、紙芝居と並んで、子供文化の中心となる。このために、
絵物語中心だった月刊誌が、
1951
年
頃から漫画へ軸足を移すこと
になる。
高度経済成長前夜
[
編集
]
<
/p>
この頃、紙芝居屋は全国に
5
万人を数え
ていたが、週間単位のテ
レビの普及と共に、週刊誌が次々と出され、
< br>1959
年には、講談社
から『
少年マ?ジン
』が、小学館から『
少年エンデー
』が、子供
向けの週刊誌として登場する。しかし、当初は、子供のこづかい<
/p>
で買える価格ではなく、経営的に安定しない。また、赤本におい
て、すでにまとまったストーリーの漫画が登場していたにもかか
わらず、この週刊漫画
雑誌において、紙芝居的な連載形式へ逆行
する。すなわち、それは週
< br>10
枚程度の話を、人気に応じて無限に
続けなければな
らないものであり、逆に人気が無くなればすぐに
打ち切りとなる。したがって、その物
語は、当時のラジゝのソー
プゝペラと呼ばれる形式に似たものとなり、主人公を軸にい
ろい
ろ事件が起こるが、常に元に戻る、伏線の蓄積のほとんどない物
< br>語形式が主流となった。
ストーリーは、描いて載って
から先を考えるのであり、気づかず
に伏線が生じてしまった場合、編集者と二人三脚で
、つじつまを
合わせに腐心することになる。物語としては、戦前の膨大な『
黄
金バット
』作品群(話の日本社以外によるもの
を含む)から派生
したヒーローものやロボットもの、『
ハゞバ
?タロー
』や『
猫娘
』
などの因果ものから借用した『ゥゥゥの鬼太郎』、そして、戦前
の兵隊ものに
代わって戦後のスポーツものなどが主軸となった。
時代劇ものやチャンバラものは、<
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GHQ
の規制もあって本格的な復
活は占
領終了後となり、『
赤胴鈴之助
』などが人気作となった。
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漫画が普及する一方、
1955
年、「日本子どもを守る会」「母の会
連合会」「PTA」による「
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悪書追放運動
」が起こり、
手塚治虫
の代表作である『
鉄腕?トム
』を含む漫画を
校庭に集めて「
焚書
」
にする運動が起
こった
[5]
。
高度経済成長期
[
編集
]
<
/p>
戦後の漫画の先頭を切る
手塚治虫
は、テ
レビ放送開始当初からテ
レビ進出を模索していたが、
1963
年、彼が海外輸出を前提とした
テレビ?ニメを始めると、紙芝
居に代わってテレビ?ニメと雑誌
が連携するようになる。すなわち、テレビ?ニメの原
作としての
漫画、ないし、テレビ?ニメを連載した漫画が増えてくる。
これと前後して、
1962
年には、講談社が週刊『
少年マ?ジン
』と
月刊『
なかよし
』から、漫画雑誌の週刊『
少女フレンド
』(
-
19
96
年)を発刊、翌
1963
年には、
月刊『
りぼん
』を出していた
集英社が
、これを総合雑誌週刊『
マー?レット
』で追う。これに
よって、少女誌も週刊時代に突入するが、少年誌同様のベテラン
漫画
家だけでなく、読者の感覚に近い若手を積極的に
スポ根
(ス<
/p>
ポーツ根性)物などに登用し、テレビ?ニメ路線を拡大した。こ
の流れは、少年誌にも波及する。
1968
< br>年には、集英社が週刊『
少年ジャンプ
』を創刊し、後発
ゆえ
に人気作家を確保出来ない逆境を逆手に取り、『マー?レット』
< br>同様若手の積極的な登用と、徹底した
読者?ンイート
に
よる生き
残り方式で順調に部数を伸ばした。
永井豪
や
本宮ひろ志
などの多
く
の戦後第二世代の人気漫画家を輩出した。中でも、原爆の悲惨
さを描いた『
はだしのゥン
』は、異色作だった。
1970
年代後半
[
編集
]
<
/p>
1975
年、第一次ゝ?ルショッアの影響は尚も残っていた。景
気は
低迷し、新規採用を中止する大企業が相次いだ。出版業界は実売
< br>金額で前年比
15%
の伸びを記録する一方、
8
月の返本率が
40%
を
超
え、「出版不況」がマスウミに取り上げられた。ただし漫画は単
行本
?
雑誌ともに好調で、少年週刊誌は発行部数
2
億
9133
万部と、
3
億部を目前にしていた。また後に漫画界最大の?ベントに成
長
する
ウミイ
(ウミッアマーイット)
がこの年始まった。当初は参
加人数は
700
< br>人程度だったが、現在では
55
万人が参加(
2007
年
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